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公開 2024.05.30 更新 2024.05.31

オリンピック7回出場の背景には度重なる病とケガとの戦いがあった
参議院議員・元オリンピック代表 橋本 聖子氏 インタビュー(前編)

北海道の広大な牧場主の子として生まれた橋本聖子氏。幼少の頃から大自然を駆け巡り、心身ともに成長していった。体に不調を覚えたのは小学3年生のとき。このときに患った腎臓病は、生涯橋本氏を苦しめ続けていくことになる。
アスリートとして、そして政治家として、橋本氏が人生を通じて追い求めるテーマである「健康」や「食」の原点は、この幼少期の療養生活にあった。

取材・文/山口和史 Kazushi Yamaguchi 写真/西田周平 Shuhei Nishida

五輪選手として運命づけられた出生

- 1964年10月10日、第18回オリンピック競技大会が東京で開かれた。
その開会式に、北海道勇払郡早来町(現・安平町早来)で牧場を営んでいたひとりの男性が、実母を連れて参加している。その男性は、会場で聖火ランナーを目にし、トーチが聖火台に火を移した瞬間に、5日前、10月5日に誕生したばかりの娘の名前を決めた。

名前は「聖子」。
本稿の主人公である橋本聖子氏は、誕生からわずか5日で父である善吉氏によってオリンピックの選手になることを運命づけられた。

橋本 聖子氏 (以下 橋本氏): オリンピックの年に生まれて、父が開会式のときに私の名前を決めたと聞かされて育ちました。

オリンピックの選手にするために、この名前にしたと言われて育っていたものですから、私の場合は人生の選択肢がそれしかなかったんですね。でも、選択肢がそれだけだったというのは非常に良かったと思っているんです。結果として夏冬合わせて7回も出られたから言えるのかもしれませんけどね。

- 父である善吉氏が営んでいた牧場には広大な敷地があった。「怪物」「スーパーカー」との異名で呼ばれる名馬マルゼンスキーを筆頭に、さまざまな名馬を輩出している牧場だ。幼い頃の橋本氏は、この牧場でのびのびと成長していく。

橋本氏 : 実家の牧場は、千歳市の東にある非常に寒い地域でした。冬には敷地内がすぐにスケートリンクになるんです。田んぼや池、沼があったのですが、雪を固めて水を撒いたらすぐスケートリンクという、そういう環境でした。家の目の前にすぐスケートリンクがありますので、冬になると遊んでいました。

夏になると、牧場内は自転車でしか移動できない広さでしたから、自転車を乗り回していたんですね。あとは馬に乗ったりね。一年中、大自然の中で何かをする生活を送っていました。

- あくまでもオリンピック選手になることが目標。なんの競技で出るかについては考えていなかった。スケート選手としてキャリアを積んでいくことを決めたのは、1972年に地元札幌で開催された札幌冬季オリンピックがきっかけだった。

橋本氏 : 地元での開催なので、当時幼かった私にも連日テレビで大騒ぎしていることが分かるんですよね。その盛り上がりの中で、小さい頃から楽しんでいたスピードスケートが種目にあった。それならこれが一番いいなという感じ、その程度で決めたんです。

- オリンピック選手になるためには予選を勝ち抜かなければならないといった事情も分かっていない。ただ「出る」と決めてはいる。我が国のスポーツ史に残る記録を達成したアスリートの第一歩は、そんな状況から始まった。

幼い少女に襲いかかった残酷な運命

橋本 聖子氏
- 大自然の中を駆け回り、自転車、乗馬、スケートと遊びの中で楽しみながら体が鍛えられていく。

「才能はあったんだと思います。なにをやってもできましたから」と自身の幼い頃をそう振り返る。携帯電話もない時代、牧場内のメッセンジャーとして橋本氏は重宝がられたという。

橋本氏 : 牧場の中を走り回っているうちに伝達係を任されたんです。自転車などで物事を伝えに行ったり物を持って行ったりで重宝がられていましたから、それが今振り返れば良い運動だったんですよね。

父も『聖子に頼むと車で行くより速い』なんて褒めてくれますし、それで調子に乗ったんです(笑)。うれしくなって、なにかの用事を伝えに行くときも、少しでも早く行こうと一生懸命走る、そういうのがトレーニングになったんでしょうね、きっと。

- 小学3年生となった頃のことだった。突然、橋本氏に襲いかかったのは「病魔」。腎臓病であることが発覚し、2ヵ月間の入院を余儀なくされる。

橋本氏 : いきなり入院生活が始まりました。今まで遊んでいたことが何もできなくなって小児科病棟の集団生活が始まるわけです。
これまでの生活とは別な意味での規則正しい生活をしなければいけないのは、子ども心に辛いものはあるのですが、同じ小児科病棟で同じような歳ごろの友だちがいて、遊び時間もあれば、医学生が家庭教師のように勉強を見てくれる時間もあり、少しずつ楽しみを見つけていくようになりました

- 腎臓病の発覚後、橋本氏のアスリート人生は病魔との戦いが競技と並行して続いていく。原因不明の呼吸器疾患、B型肝炎、そして腎臓病の再発とケガ。オリンピック選手という極度のプレッシャーに晒されるアスリートとして、この病気との戦いがなければ「自分はオリンピック選手にはなれなかった」と自身で振り返っている。

橋本氏 : 病気なんて当然ならないほうが良いのですが、自分の体を知るきっかけにはなりますよね。病気になると食事ではこれはダメ、これは食べられるといったことを調べざるを得ません。運動についてもここまではできるけど、これ以上は体に負担を掛けられないといったことが分かってきます。

最初は自分で分からなくて、お医者さんや周囲から言い聞かされて、押し付けられる格好で嫌になることもありました。でも、だんだんと受け入れていくうちに、なぜこうなるのか、この症状を出さないためにはどうすれば良いのかといったことを考えるようになるんです。
たしかに病気になったことで諦めなければならない部分はあります。一方で、諦めることで得られるものもあると病気が教えてくれました。

- できないものはできない。そこで精神的に落ち込んでしまうと治そうとする気持ちも萎えてしまう。小学3年生のときに発覚した腎臓病との戦いは、およそ2年半にわたって続いた。その間、運動はできない、運動会も出られない、体育の授業も見学せざるを得ない。できないことを諦める代わりになにを得られるのかという発想のパラダイムシフトを橋本氏はこの時期に経験している。

後に花開くアスリートとしての華麗な経歴、そして政治家として取り組むことになる生涯のテーマの原点がここにある。

参考文献:「オリンピック魂」「聖火に恋して」(ともに橋本聖子著)

<中編はこちら>

Profile

橋本 聖子 氏

参議院議員、元オリンピック代表。1964年10月5日、北海道勇払郡安平町早来に生まれる。1984年から1996年まで、夏冬合わせて7回のオリンピックに出場した。1995年参議院議員初当選、以後5期連続で当選を果たす。2019年に東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当大臣、内閣府特命担当大臣(男女共同参画)、女性活躍担当大臣、2022年に(公財)東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長などの要職を歴任。