2023年12月に現役生活から引退した小野伸二氏。小学生時代中学、高校、そしてプロの世界でも天才の名をほしいままにしてきた彼が、他者から抜きん出た能力を身につけられた秘密はどこにあったのか? 誰からもその華麗なプレーを称賛されるも「内心は不安だった」と語る彼が、サッカー選手として自信を得られたのはいつだったのか? 自ら「生涯最高」と語る、時代について話を聞いた。
取材・文/山口和史 Kazushi Yamaguchi 写真/西田周平 Shuhei Nishida
やりきったなんて思っていない。やろうと思えばまだできた。
― 2023年12月3日、札幌ドームで行われたJ1最終戦となった北海道コンサドーレ札幌対浦和レッズ戦。会場には3万人以上の大観衆が詰めかけた。
ミッドフィルダーとしてこの試合に先発出場した大ベテランは前半4分にパスからチャンスを演出して大歓声を集めると、続いて前半11分にもペナルティエリア近くからパスを出し見せ場を作り、前半18分にはフリーキックも蹴るなど、縦横無尽にピッチを駆け回った。
前半22分で交代が告げられると、北海道コンサドーレ札幌、浦和レッズ両陣営のサポーターから涙ながらの熱い声援が寄せられ、ベンチに下がる際には浦和レッズの選手もピッチ上に並んで花道を作り見送られた。
この試合を最後に引退したのは小野伸二氏。
小学生時代から「天才」の名をほしいままにし、同じプロサッカー選手たちからも一目置かれたスーパープレイヤーの最後の勇姿を一瞬たりとて見逃すまいと、超満員の観客たちはピッチに熱い視線を集め続けた。
小野 伸二氏(以下 小野氏): 足の状態が良くなかったというただそれだけです。自分の中で僕の足と相談をした結果、引退するのはこの時期だと決めたんです
― 現役生活の終盤は、毎日痛み止めが欠かせない生活だったという。その日によって痛みの度合いも違う。痛みがあれば理想のプレイをすることも難しい。当然、強度なトレーニングを積むことも難しい。
小野氏 : やり切ったなんて思っていませんよ(笑)。やろうと思えばまだできたと思いますし。かといって、引退に迷いもありませんでした。ただ次のステップに行く時期が来たんだなと、自分で思えたのが大きいですよね。
― 引退試合から数ヶ月が経った現在、小野氏はこれまで経験したことのない日々を送っている。そんな毎日を送る中でも、日々、サッカーボールとも触れ合っているという。
小野氏 : 今日も午前中サッカーをやってきました。時間があるときはなるべく体を動かしています。動いていないと気持ちが悪い、落ち着かないんですよね。もう39年くらいサッカーと接してきたわけですからね。引退と言われてもまだ慣れないんです。
誰よりも自分が一番ボールを触っていた
― 気がついたらサッカー漬けの毎日だったという。数あるスポーツの中で、なぜサッカーを選んだのか、なぜサッカーにこれほどまでに熱中したのか、自分でも「はっきりとは分からない」と語る。
小野氏 : サッカーに興味を持ったのはなぜなのか、そこは自分でも明確には覚えていないんです。自分も野球や卓球、バスケットボールやバレーボールと、いろいろなスポーツをやっていくなかで、最終的に行き着いたのがサッカーでした。サッカーが一番長く、ずっと続けていた。気がついたらやっていた感じですね。
サッカーはひとりでできるんですよ。リフティングはもちろん、壁にボールを当ててパスの練習をしたりと、自分で工夫しながら遊んでいました。
― その才能は小学生にしていきなり開花する。「とてつもなくサッカーの上手い小学生がいる」と、地元の静岡県沼津市で話題となり、小野氏がひとりでサッカーをしていることを知った小学生サッカーチームの監督から「会費はいらないからぜひ入部してほしい」と誘われるほどだった。
サッカー少年はたくさんいた。多くのサッカー少年と小野氏とで、どこでどのように能力の差が生まれたのか、自身では次のように分析している。
小野氏 : 僕のほうがよりボールを触っていた、それだけだと思います。本当にずっと触っていましたから。小学校の休み時間の10分休憩でもボールを触っていましたし、朝から晩まで毎日そういう生活を繰り返していました.
― この言葉には謙遜も多分に含まれているに違いない。誤った努力は自身を裏切ることがある。正しく能力が開花したのは、小野氏が小学校低学年の頃から、どうすればサッカーが上達するのか、自身になにが足りないのかを正しく分析し正しく努力をした結果なのだろう。
この「正しく分析し正しく努力できる才能」を持った小野氏の能力は小学校高学年から中学生時代に掛けて全国レベルにまで飛躍していく。
1992年1月に開催された「バーモントカップ第1回全日本少年フットサル大会」では準優勝し小野氏自身も優秀選手に選ばれた。中学生になると13歳でU-16日本代表に初選出され、以降も世代の代表選手として華々しい活躍を見せる。しかし、小野氏自身の心中はまだ不安でいっぱいだったという.
小野氏 : 一応、世代別の代表に入っていましたが、あの頃はまだ自分に自信を持てていませんでした。とにかく選考に残る、残って最終選考まで行くということに必死だったんです。それだけ素晴らしい選手、良い選手がたくさんいましたから.
― 小野氏が「自分のイメージ通りのプレイができるようになった」と語るのは、清水商業高校に入学して2年目、高校2年生になってからのことだという。自他ともに認める天才性が、いよいよ開花する。
小野氏 : 自分のサッカー人生で、思い返してみても自画自賛できるプレイですか? パッとは思いつかないんですけど……高校生のときの練習の中のプレイが一番すごかったかもしれませんね。さまざまなイメージや創造性にあふれたプレイができていました。一つひとつのプレイが理想通りで、いまのようにSNSがあればかなりバズったんじゃないかな.
― 高校2年生〜3年生になると、頭の中に思い描く理想と、実際のプレイが完璧に連動するようになった。ここに至ってようやく自身のプレイにも自信を持てるようになった。
自信に満ち溢れたプレイを繰り広げる小野氏をJリーグのクラブが放っておくはずがない。全国13クラブからオファーを受けた小野氏は最終的に浦和レッズに入団を決める。1998年のことだった。